喧嘩とチョコレート
キットカットは甘い。イタリアに渡る前は、特に思うところはなかった。ストロベリーは、苺の酸味が効いている。抹茶の苦味もチョコの甘味とマッチして引き立てる。ホワイトは、ココアバターと乳製品の甘さが強い。ホワイトチョコレートが好きな者には、堪らないだろう。全粒粉は、ビスケットのサクサク感が心地いい。それが今では、苦手な部類に入る。仕方ないのだ。イタリアで過ごした日々が、南城に苦手意識を植え付けた。歯に沁みるような甘いエスプレッソは、市販のチョコレート菓子を敬遠させる。ジャムや砂糖、蜂蜜がたっぷりのパンは、ホワイトチョコレートを遠ざけた。料理に使う分にはいい。それでも、自分で食べる分にはビターな甘さが一番だ。故郷で度を超すような甘さは勿論、甘すぎるものは南城にとって苦手な部類となった。今では【オトナの甘さ】しか食べれない。
サクッと黒いキットカットを齧る。全体的にほろ苦い。砂糖の入っていないエスプレッソのようであり、砂糖は隠し味にほんの一粒。全粒粉と違って全体にビスケットが練り込まれており、こちらも甘味がない。南城にとって、ちょうどいい甘さだ。サイズが小さいので、すぐになくなる。
もう一つ食べる。割った際に欠けた薄い側面で、煎餅のように薄く繋がっていることを知った。パリッと煎餅を齧ったときに見える、米菓子の断面図と同じ色合いと層をしていた。(煎餅食べたくなってきたな)帰りに買って帰ろうかと思う。ぽたぽた焼きの甘さではなく、塩しょっぱい方がいい。(それならあられか)口が欲しがるかを考える。その横で、桜屋敷は手付かずのチョコレートを食べた。
抹茶の封を破り、口に入れる。形式だけ割ったものの、食べた傍からすぐ入れる。それを南城は横目で見た。
抹茶を食べ終えた口で、今度はストロベリーの味を食べる。やはり形式だけ割ったものの、口に入れた傍から割れた片方を追加した。キットカットは小さい。口の中ですぐ溶けることを換算しても、あまりにも早い。減り続ける量に、南城は気分を悪くした。顔を青褪め、引いたような目で桜屋敷の手元を見る。
「よくそんなに食べられるな。一気に口の中が甘くなるだろ」
「あ? カーラのカロリー計算で太る心配はない。俺が食べる分は、必要なカロリーだ」
「甘さの問題だ。確かに女ウケはいいけどな、舌が馬鹿になる」
「苦手なだけだろ」
「お前だって牛乳飲めないだろ」
「黙れ」
「俺にキスをするつもりなら、まず口をすすいでからにしろ」
「されたいのか」
「んなわけあるか。いいか、するなよ」
「するわけないだろう。今はそんな気分じゃない」
自ら否定した立場でありながら、南城は非常に傷付いた。決して表には出さない。桜屋敷の切り捨てに、肩が一瞬だけ後ろに跳ねただけに終わった。沈黙を続けたあと、静かに「あっそ」と切り捨てる。南城も桜屋敷と同様、今の会話を捨てた。特に重要でもなければ、今後とも会話に出す必要性もない。とてつもなく優先度の低い会話の内容を、ゴミ箱の中に捨てた。海馬の中で徐々に、小さく圧縮して忘却の彼方に消えていくことだろう。気分を入れ替えるために、苦いチョコを食べる。高ポリフェノールは生活習慣病を予防し、低GIとかは血中のブドウ糖の濃度推移を穏やかにさせる。カカオ86%が、実に一番推移が低い。まったく効率的なことだ。桜屋敷のAIも、タダの飾りではない。オマケに、南城でも食べられる甘味だ。〈チョコレート〉であるので、例え苦味が強くても甘味である。カカオのカフェインもただ乗りして、眠気も覚めてきた。
だからといって、桜屋敷のように仕事をする気にはならない。店の維持に必要な事務やメニューの開発などにも時間を使わない。休むときは、有意義に休むものだ。南城は、その場でできる筋トレを始めた。
「ここで筋トレを始めるな。筋肉ゴリラ」
「時間は有効的に使うもの。そうだろ?」
「俺はそういう意味でいったんじゃない」
「口に出した以上、どう捉えるかは聞いた本人の自由だ」
「屁理屈をいうな」
「お前だって屁理屈いうだろ」
「俺のは理屈だ。馬鹿ゴリラ」
「そういうのを屁理屈だっていうんだぜ。陰険眼鏡」
床に頬杖を衝くような要領で、南城は片腕で腕立て伏せをする。いつのまにか、上半身の服を脱いでいた。服を汗だくにしないための工夫だろう。布の代わりに畳が汗で湿る。
「やるなら外でしろ!」
「外だと不審者に思われるだろ!?」
「廊下って意味だ! ボケナス!!」
「狭いだろ!?」
「そもそも筋トレをする場所じゃない!」
桜屋敷の最もなツッコミが入った。筋トレを強行しようとする南城への狼狽えが混じっている。「そこまでいわなくてもいいだろ」桜屋敷の態度や反応に、思うところがあるらしい。悲しみを滲ませながら、南城は腹筋を行った。シックスパックが実によく動いている。桜屋敷は引いた。
「だから廊下でやれと。使ったら拭いておけよ」
「放っておきゃ乾くだろ」
「シミができるんだ!! ったく、これだから雑ゴリラは困る」
「お前が神経質すぎるんだよ。重箱の隅ピンク」
「不潔ゴリラがなにをいう」
「毎日シャワー浴びてる」
「服くらい毎日洗濯しろ」
「イタリア暮らしが長いんだよ」
「スクワットをやめろ、類人。お前は元からだろう。イタリアのせいにするな」
「イタリアは水が高いんだよ。水道代節約するために、洗濯は週に一回と決まっている」
「日本に帰ったら変えろ」
「やだね。水道代が勿体ない」
「普段は全裸で暮らしているのか? 本当に原始人の生活をしているとは、驚いたな」
「寝るときは全裸だぜ」
「ケツになにかを入れられては、文句がいえんな」
「お? 入れる気か? 変態眼鏡」
「誰がお前になんか欲情するか。哀れみすら覚える」
「してるだろ。じゃなきゃ、あの硬さはなんだ」
南城が筋トレを止めて、桜屋敷に顔を向ける。会話をしながら筋肉に負荷を与えるトレーニングをしただけあって、汗だくだ。その汗を流した身体と逃がさない視線から、桜屋敷は視線を逸らす。止まった仕事に戻った。デッサン用の鉛筆を紙に軽く叩き、続きを思い出す。脳に指令を送っても、打ち出の小槌は出てこなかった。上手いことアイディアが出てこない。南城が追いかける。
「おい。話を流す気か?」
「聞いても無駄だろう」
「俺にとっては無駄じゃない。寧ろ好都合だ」
「なら益々いわん。誰が不利益なものを渡すか」
「おっ? なら認めるってことだな?」
「くだらん。それをいうなら」
得意気に確証を集める南城に、一息入れる。呼吸をし、閉じた目を開ける。伏せた瞳は、呆れたように南城を見つめた。
「アンアン喘いでいるお前はなんだ」
レッドカードである。それはフィールドの陣営を敵味方共々に吹き飛ばす、禁じ手である。その一手で場を凍らせた。禁句を口にした桜屋敷は、南城を見つめる。南城は眉間に皺を寄せ、眉を吊り上げていた。文句を言おうとした口は、口角を下げたまま震えている。空気だけでなく、南城の舌も凍ったようだ。言葉が出てこないとは、まさにこのことだろう。不公平に憤る南城の顔だけが、赤くなる。
「こっ、の!」
硬直した頭が再起動を始めたようだ。
「それはいわない約束だろ!! 腐れ眼鏡!」
「知るか。だったら遠回しに聞いてくるな。原始人」
「あ? 誰も聞いちゃいねぇよ。薫がそう感じただけだろ」
「なんだと?」
「やるか?」
苛立ちを露わにした桜屋敷に釣られ、南城も不快さを露わにする。頬杖を衝いた腕を畳に寝かし、向けた背中を捻らせた。肩越しに南城が睨んでくる。桜屋敷も負けじと睨み返す。ギリッと噛み締めた奥歯が軋んだ。
「いいだろう。但し、コイツで勝負だ!! コッチの勝負はお断りだ」
「ほー、自信がないのか? 童貞眼鏡」
「誰が童貞だッ! 淫乱ゴリラ!! 今度のクレイジーロックで勝負を決めるぞ!」
「望むところだッ!! 負けたら泣き言いうなよ? ロボキチ」
「誰が負けるかッ! そっちが負けたときの準備をしたらどうだ? 類人」
「はぁ? 誰が負けるかよ」
「真似するな!」
「そっちこそ真似するな!!」
「ぼんくらッ!」
「すかたん!」
「脳筋ゴリラ!!」
勝負が白熱すると、自然と距離が縮む。激しく頭突きを行い、互いに一歩も引かない罵り合いを始めた。喧嘩の熱が上がり始める。上昇した熱は周囲を確認する視野を狭め、意識すらも一極に集まる。周りが見えないものだから、ふとした弾みに事故が起きやすい。踵を踏みしめ、山羊のように頭突きで勝負を決めようとする。無意識のことだ。額に加重と痛みを感じながら、相手を罵倒する口を止めようとしない。「あっ」桜屋敷が一歩踏み出し、南城が喧嘩する距離を保とうと少し身体を引いたとき、事故が起きた。南城の肘が障子に当たり、そのままバランスを崩す。「あぁ!!」桜屋敷の悲痛な悲鳴が響いた。障子に穴が空き、あまつさえ障子の枠さえも南城の体重で折れそうになったのである。修理費や直す日数を考えて、気が遠くなる。
障子が壊れる前に、南城が体勢を立て直した。
「って! 俺の心配はしないのかよ!?」
「ゴリラは頑丈だから問題ないだろう。あぁ、障子が」
直すには時間がかかる。よよよ、と倒れる桜屋敷に、南城は不条理さを感じた。